Masuk臨時取締役会は、午前7時に始まった。
正式な議題は、『経営リスク対応のための代表取締役の職務に関する検討』。実際に話し合われたのは、桐生蓮司の口をふさぐ方法だった。
「過去の家庭の問題を、会社の犯罪であるかのように広げた責任を問うているのです」
社外取締役の1人が、書類をたたいた。
「株価は2日で9%下落しました。金融機関3社からは、信用格付けを再検討するとの通知も届いています」
彰人は末席に、黙って座っていた。
蓮司が尋ねた。
「それで、取締役会の提案は?」
議長が用意していた合意案を押し出した。
第1に、5年前の離婚に関する調査を、社内監査に限定する。
第2に、一ノ瀬紗月代表についての追加の公的発言を中止する。
第3に、桐生彰人専務に対外業務の全権を委任する。
第4に、蓮司は1か月間、代表取締役の職務を離れる。
職務停止期間中の権限についても示された。社内システムへのアクセス停止、系列会社の役員と
臨時取締役会は、午前7時に始まった。正式な議題は、『経営リスク対応のための代表取締役の職務に関する検討』。実際に話し合われたのは、桐生蓮司の口をふさぐ方法だった。「過去の家庭の問題を、会社の犯罪であるかのように広げた責任を問うているのです」社外取締役の1人が、書類をたたいた。「株価は2日で9%下落しました。金融機関3社からは、信用格付けを再検討するとの通知も届いています」彰人は末席に、黙って座っていた。蓮司が尋ねた。「それで、取締役会の提案は?」議長が用意していた合意案を押し出した。第1に、5年前の離婚に関する調査を、社内監査に限定する。第2に、一ノ瀬紗月代表についての追加の公的発言を中止する。第3に、桐生彰人専務に対外業務の全権を委任する。第4に、蓮司は1か月間、代表取締役の職務を離れる。職務停止期間中の権限についても示された。社内システムへのアクセス停止、系列会社の役員との接触禁止、監査チームの指揮権返上。ただし、すでに外部捜査機関へ提出した資料を回収するという条項はなかった。取締役会にも、そこまではできないからだ。蓮司は各条項を外部弁護士に確認してもらったうえで、署名した。会長職を投げ捨てる見せ場にするつもりはなかった。定款に沿った手続きであり、自分が経営リスクを生んだ責任もあった。「最後の条項は、受け入れます」取締役たちの間に、低いざわめきが広がった。彰人が初めて顔を上げた。「残りは?」「受け入れません」蓮司は合意案を半分に折った。「社内監査だけに限定できる問題ではありません。文書偽造と名義の不正使用に関する資料は、すでに外部捜査機関へ提出しました」議長が声を強めた。「取締役会の承認なく、会社の資料を渡したということですか?」「犯罪の疑いがある資料を、保全したんです」「会長個人の感情で、桐生全体が――」「個人的な感情から始まったことなのは、事実
文書鑑定人が、2つの署名を重ねた画面をこちらに向けた。赤い線と青い線は、少しもずれていなかった。「同じ人が同じ署名を繰り返しても、わずかな違いは生じます。筆圧や速度、紙の状態が違うからです。ところが、この2つはインクの飛んだ点まで一致しています」鑑定人が、さらに倍率を上げた。「グランド・キリュウ・ホテルの業務委託契約書から署名をスキャンし、伝票に挿入したと判断できます」紗月は鑑定書を受け取った。自分の名前が、自分の手を離れ、誰かの嘘に使われていた。漠然と知っていたときより、赤い線がぴたりと重なるのを目にした今のほうが、不快だった。「元の契約書は、誰が閲覧できたんですか?」黒川が、桐生から受け取った資料を広げた。「当時のホテル法務チーム、本社のコンプライアンス支援室、文化財団の監査チームです。電子文書のアクセス履歴が1件、残っています」印刷された表に、同じ名前が何度も出ていた。石崎雅人。当時、桐生グループ法務チームの入社2年目の社員。離婚直後に退職してベトナムへ渡り、現地のコンサルティング会社で働いていた。蓮司はその名前を見ても、すぐに人を送らなかった。「接触する前に、一ノ瀬代表側と方法を決めます」黒川がうなずいた。「まず、現地の弁護士を通じて、自発的に話す意思があるか確認しましょう。強制に見えるような措置は取りません」蓮司は書類の最後の行を読んだ。石崎が契約書を閲覧したのは、紗月が神戸の会場にいた、まさにその日の午前中だった。彼の社員アカウントで、スキャンデータが外部記憶装置へコピーされていた。履歴には、ファイル名が2度変わった跡もあった。最初は正式な契約番号で、コピー直前に『IS_sign_final』という名前で保存されていた。外部記憶装置の製造番号は、当時の法務チームの共用機器台帳と一致しなかった。「私物のUSBメモリーを使ったということですか?」「その可能性が高いです。ただ、別人がアカウントを使ったことも考
インタビューに出た女性は、三浦和江という名前だった。5年前、桐生銀行の瑞草法人金融センターで、契約職の窓口係として働いていた。現在は桐生文化財団傘下の福祉センターで、会計を担当している。「財団で働いているんですか?」紗月の問いに、黒川がうなずいた。「入ったのは3年前です。桐生雅子理事長の在任中ですね。それから、インタビューが流れた昨夜、三浦さん個人の借金800万円が、一度に返済されています」「送金元は?」「モメンタムPRの子会社とみられる法人です。借名口座かどうかは、まだ調べています」真帆が印刷した資料を渡した。「コメントは半々です。会長が謝罪したことで、逆に『謝るだけの理由があったんだ』と受け止める人もいます」紗月は反応の集計より先に、和江の勤務記録を見た。インタビューでは、日付も時刻も具体的に述べていた。5年前の4月18日午後2時20分、紗月が黒いコートで1人、銀行を訪れたという。「その日、私は神戸にいました」紗月はパソコンを開いた。「海雲台のホテルで、ウェディングのデモンストレーションがあったんです。午前9時から午後7時まで現場にいて、生配信もしました」数分後、当時のイベント映像が画面に現れた。紗月は赤い作業ベストを着て、天井の装飾を点検している。右上には、日付と時刻がはっきり映っていた。午後2時17分。元の映像は、中継を担当した地元テレビ局のサーバーに残っていた。舞台裏のカメラには、紗月が午後2時5分から30分まで一度もその場を離れていない様子が、連続して記録されていた。現場の入館証記録とホテルの駐車場精算履歴も、同時刻に神戸にいたことを裏づけた。黒川は1つの資料に頼らず、3種類の記録をそれぞれ保全した。生配信の編集を疑われても、入退館記録と決済時刻が残るようにするためだった。真帆が乾いた笑いを漏らした。「ここまであれば、もう決着じゃないですか?」「ううん。あの人は、自分で私を見たと嘘を考えたというより、誰かに用意されたものを読んでいる可
午前10時。桐生グループ本社1階の記者会見場は、足の踏み場もなかった。桐生蓮司は、広報チームが用意した原稿を受け取らなかった。代わりに、薄いファイルを1冊だけ演台に置いた。フラッシュが立て続けにたかれた。「桐生会長、破談の理由は、一ノ瀬紗月代表との復縁ですか?」「婚外子がいるという疑惑は事実ですか?」「元妻が故意に結婚式を台なしにしたという主張もありますが」蓮司は、最後の質問が終わるまで待った。「破談は、私の決定です」短いひと言に、会場が静まった。「藤堂怜奈取締役と一ノ瀬紗月代表は、私の決定によって被害を受けました。特に、一ノ瀬代表が行事に私情を持ち込んだという主張は事実ではありません。最後まで現場を収拾したのも、契約上の損失を最小限に抑えたのも、一ノ瀬代表でした」誰かが再び手を上げたが、蓮司は続けた。「5年前の私の離婚に関しても、事実と異なる資料が流通していた形跡を確認しています。私は当時の妻本人に直接尋ねず、確認していない情報を信じました」広報チーム長の顔が真っ白になった。合意していた文言には、『過去の資料の真偽は調査中』としかなかった。蓮司は、その安全な一文を捨てた。「工作に誰が関わっていたとしても、妻を信じないと選んだ責任は、私にあります」頭を下げた。「一ノ瀬紗月代表、藤堂怜奈取締役、そして行事に関わった皆様に、私、桐生蓮司の名でお詫び申し上げます」続いて、次のページに記した具体的な被害も読み上げた。現場スタッフが取材陣に押されてけがをしたこと。ルミエールの顧客情報が流出したこと。藤堂グループは交渉当事者でありながら、破談の決定を報道と同時に知ったこと。『遺憾』のひと言で曖昧にせず、誰に何をしたのかを分けて話した。「ルミエールの営業損失については、契約上の精算とは別に、調査へ協力します。ただし、損害額は一ノ瀬代表側が算定します。桐生から一方的に補償案を発表することはありません」なぜ先に金銭を提示しないのかと記者に問われ、蓮司は答えた。「金
蒼葉紡績文化館は、写真で見るより状態が悪かった。赤れんがの外壁は美しかったが、床はあちこちひび割れ、天井の配管には結露の跡が残っていた。仮設電源の容量では、照明とケータリングの機器を同時には動かせなかった。紗月はヘルメットをかぶり、現場を歩いた。「こちらは招待客の動線に使えません。床の段差が4センチを超えています」建築家の圭介が図面を広げた。「仮設のデッキを敷けば対応できます。既存の床には手を加えない条件で」「手すりも必要です。お酒を出す催しなので、夜間の利用を前提に見てください」施設チームから、消防関係の検査がまだ終わっていないため、天井から装飾をつるせないと言われた。既存鉄骨の許容荷重に関する資料も、一部欠けていた。紗月は花を頭上に飾る予定だった初期図面に、赤線を引いた。「天井には、何もつるしません。床置きの自立式に変えて、非常口の前は2メートル空けてください」璃子の母は空間が寂しく見えるのではと案じたが、紗月は安全確認が済むまで見栄えの議論をしなかった。圭介が、古い織機のフレームを装飾に使おうと提案した。構造計算と文化館の承認を前提に、検討項目へ加えた。「古いものを残すことと、無理に使うことは違います」紗月の言葉に、圭介もすぐ同意した。場所にまつわる思いが安全に優先しないよう、最初の議事録には禁止事項から記した。璃子が、ほこりの積もった窓を見上げた。「それでも、ここで挙げたいんです。父が初めて工場を買い取ったとき、自分で手を入れた建物だから」紗月は、その言葉を書き留めた。古い空間をきれいに見せるより、なぜここでなければならないのか、招待客にも伝わることが大切だった。現場点検が終わるころ、久我悠真が到着した。ホテル・オルヴィエの施設チームと、ケータリングの責任者も一緒だった。「頼まれていた仮設電源の見積もり、持ってきたよ」厚いファイルを差し出した。「発電車2台、移動式の厨房、冷蔵コンテナ。ホテルの物流チームで、設置まで請け負える」
藤堂怜奈は、藤堂グループ広報室の会議室で紗月と会った。テーブルには、記事が出るまでの経路を分析した資料が置かれていた。5年前、5億円の記事を最初に書いた記者と、最近の記事を掲載した媒体は違う。だが、資料を渡した広報代理店は同じだった。モメンタムPR。「うちも、契約したことがある会社です」怜奈が言った。「今回の破談対応を任せるように、桐生が勧めてきたんです。不審に思って過去の案件を調べたら、5年前の桐生の後継体制に関する広報も担当していました」紗月は代表者名を確認した。「現在の契約者は、どこですか?」「桐生戦略企画室。実務の承認者は、桐生彰人専務側です」「文化財団の入館証で入った撮影補助員も、この会社の所属でした」「なら、偶然ではなさそうですね」怜奈は、藤堂のセキュリティチームが復元したアクセス履歴を画面に映した。最初の5億円の資料が記者へ渡った日、モメンタムPRの担当者は桐生別館の会議室の入館カードを使っていた。最近の記事のファイルも、同じ担当者のアカウントで作られている。5年の間隔があっても、作成者と承認経路はつながっていた。「これを提出すれば、藤堂も調査を受ける可能性があります」「わかっています。最近の契約金の一部は、うちの広報室が払っていますから」「取締役会に止められませんか?」「止めようとしてきました。だから昨夜、先に監査委員会へ申告しました」怜奈は議事録の写しを差し出した。自分に不利になりうる契約も隠さない。その代わり、誰が桐生からの推薦を承認したのかまで調べるよう求めた文書だった。「自分の名前を守るって、何が何でも潔白だと言い張ることではないんですね。自分が署名した契約に問題があれば、それも出すことなんだと」紗月はその言葉に、蓮司の謝罪とは違う響きを聞いた。怜奈は許しを求めていない。自分が選んだ立場で生じた責任を、自分で片づけていた。怜奈がファイルを渡した。最近の記事に添付された残高証明書の画像は、作成日が5年前だった。使用ソフトの登







